夢-最中なぜ憶い出すことができないか?( 夢見の実践-original )
目次
前.エッセイ
2.また忘れている。
1.予定の焦点。

このまえ“ -オーソモレキュラー入門 ”読書中,ビタミンBの足りない芸術学生たちに関して書かれた一節が遇った。例えば,
“ ..疲れやすくなり、集中が続かなくなります。さらに寝つきが悪くなり、寝てもスッキリした感覚がなくなり、ときにリアルな夢が増えてきます。さらにビタミンB欠乏が進行すると、夢のリアルさが増し、カラーになり悪夢が増えることになります。
また、音や光などに敏感になってしまい、雑踏が苦手になり、教室に入ることにも抵抗感を感じるようになります。こうしたことから、さらに創作活動への意欲が低下してきます。”
その本は“ 整合-分子( 分子栄養的 )”の特定要素だけ簡単に述べたので,“ 心因的-精神的 ”の因子は出ていない。その芸術学部の特に栄養摂取の偏りという問題であったのかどうか-( ところで,カラーの“ 夢 ”が無いとは?? )

何年かまえに“ビタミンB6”が明晰夢に有効だという記事などがネット上に現れたことが遇った。私はその頃にもあくまでも自己史観としての“コーヒー成分”との睡眠-夢へのなんらかの影響が?(-または心的に?)と,99年頃と同じに私の一行書き足したに過ぎなかった。
私は食事毎の糖質量を下げようとしたので,炭水化物に因る依存性は以前よりも低下しているだろう( それで,遷移的な“ 夢 ”への枯渇感も減っているのかしれないが..。)
[ ところで,栄養についても食材等の元型的な機能本位に摂取するのが最適だと私には思えた。肉は肉自体として,卵は卵( 生命力自体であり,雛は殻から羽化してその卵殻をかじるという, )動物の脂肪なども近年かえって疾患を減らすとして見直されている( ただ,これも糖質とが多いと血管等に害となるおそれ. )-“ 玄米食 ”が問題視されるようになったのは,たとえば芽の出る種子類には( 環境にそれ自体が守られるような )毒性や酵素阻害の酸など含まれているという理由で,食すには,発芽させる必要という。〔 それ自体( これ自身 )の機能に準じるということ。〕]-
その“ビタミンB欠乏”に関する一節に依るなら,( リアルな夢のためには )夢見希望者はVB欠乏状態でなければならぬ? ある渇望が,それの夢を身させるというのも夢見希望者ひとつの論理かもしれなかった。
私の場合には,ときどきの“スキヤキ”鍋ものみたいな温かい食事の方が自覚夢には効果的だったと憶う( あるいは,そのような,よろこびなどのハッピーが,なにか前向きに意図するという,‘ 夢見の法則 ’にアタッチメントとなれる可能性.. )

2.また忘れている。
また( いま )なにか忘れている。というこの文脈,案外私のこれ以前‘ 実践 ’提起には直接的に無かった言い回しである。詰まり,日常的にこの提起が必至と繰り返されていれば,これは日常的な‘夢’最中にも必ず機能するであろう,という見込みだ。
〔 補足:
2020年3月末“UNDO”見出しの日付等には,“ 私なにか忘れている,また忘れている- ”これから夢見へのアンカーとする,という一文であった。が,今では“ アンカー ”たとえの具体性が無く.,もし,これ自体が( 意図というよりも即に‘ この場 ’夢見のように保つ,という意味での;)機能であったなら,これは“ アンカー ”自体との場-形成,という機宇なので,その場合,夢見者が予め“ 夢 ”の表れにみている( またはそのその場を投影しかけている。)この論法では,視野“ 粒子状 ”に条件点ける:提起に拠っても,同時‘ 視図しと’的,なんらかの要素が投映可能かもしれない。〕

これまでには“ 睡眠-状態 ”に対する問題として私は述べたので,私が実践向けのテクストとしてこの状態について言及する場合には,一体どうすれば良いのか?という質問型か,更にこれこれの方法が良い,という提起の示しであった。
また忘れている - ,ここでは“ なにを? ”の問題にはしない。なにが憶い出されないか?という問いではなく,(今)なんだったか忘れている! ..これの自覚自体でなければ,またもや無意味に過ぎる。
忘れていたら,恒久的な自覚の試みがそこで放棄されてしまった,[ 私が私であるという原理,だが,その一瞬(永久に)捨ててしまった? ]完全な自由を?

質問:リアルと視点
〔 ..無自覚, 自動的に繰り返された日常的な動作など( 記憶された慣習に依る. )それらは解離された状態での別-行動かのようだ。が,もし予めの自覚的な注意-焦点が効いていた処からの場合には( -途中その注意が半ば逸れたとしても, )前後にその場面として喚び戻せる可能性がある。
例えば,その場に‘ 夢 ’として観察された明晰夢でなくても,普通“ 夢 ”自体とのなんらかの記憶が残る( 起床後には憶い出せなくても, )-どうしてか? それらは日常普段のぼんやり状態と似ている( 意図的の私とは無く,なにも行動できない,“視れない”と思い込んでいるから-? )
睡眠-夢自体は“ わたしの不明瞭な状況 ”として体験されるのだが,それがリアルな印象である程にそれの異常性とは意識されない場合が多い.普段の状況に遇っては変というべきなのに,“ 夢 ”最中にはそれが見過ごされる。いや,そんなわけは無い - それの“ わたし ”は睡眠-夢のあらわれに妥協している。
あるいは,すべての夢に分化されている‘ 私 ’という観点( -すべて,わたしのそこに在るもののような )それら自体に対する,同時の視点を難しくしている。私-自身といい,夢自体の,利用するものであったかのように。

1.予定の焦点
最近まとめてみた,夢見向けページ等に於いて,あらためて‘ これはいま,ゆめだ ’と気づくという目的のために,どのような了解が必要なのか,簡単に書き出してみた。
(“ 外 ”に向かって歩き出す必要の遇ったときに,これ自体は未だ可能性としてのベクトルであり,よろこばしさ,希望の向かうところであった。)そのようなベクトル自体が,“ 夢 ”にも前向きな作用となって,表れ,行動や,振る舞いに置き換えられる。
私は以前“ 旅 ”への可能性が( もはや,最終的な )行き着くところである-と,自覚しはじめた時に,“ 外在現象 ”の研究に触れようとした。[ このまえ私が図書館インターネット端末を利用したとき,ちょうどその背後にリサイクル図書として幾つか並べられた児童向けの本など,“ 鏡の中のメイ ”というタイトルが遇った。私は一度だけ持ち帰って読んでみた。ある学校の階段-踊り場に,黒カーテン掛けられた姿見のような鏡ひとつ.少女が偶々そのカーテンを引いて自身の姿を写した処,その反転した“女の子”に話しかけられ,自身とが入れ換わり( 彼女自身の姿はだれにも写らなくなり,だれかの同時にみている場所ではなにもできないが,彼女ひとりきりでなら物を動かしたりできる.“ 偽もの ”は彼女になりきってクラスメイトと一緒にいるが,じつは何年間も鏡の中に閉じ込められているあいだに自身が誰だったのかも憶い出せなくなった,別のものだった。鏡に捕らわれたら,自身が脱け出るためには偶然の誰かと入れ換わらなければならない.. )
私には,そのそれの姿は見えないが-お化けのように物を動かせるという点に,あたかも“ポルターガイスト”の原理が仮想されるお話かのようで,その点だけがちょっと思われた。ある種の“分離-霊”か,合成かもしれないが,それが“物品”に動くという見方だ。
( 昔“ 憑依と精神病 ”というタイトルには,ある女子生徒の机が上下に動いたというような,ほんに数例の説明されない物理的?“現象”のような事が書かれて遇った。)]

例えば,未来の可能性について確約をする・という従来的ワードについて,私はここには採用しなかった。“可能性”というワードが具体的でないなら,それは具体化しない[ 自乗または自除の効果。]
- 既に“ 憶い出そうとする ”という動機付けではない。記憶コンテンツ( むしろ“ 夢 ”としてあらわれる )そのものに問-題とはならないからだ。‘ 自覚 ’が起これば本意であり,離れていた焦点が,これとして自由に機能できれば。

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“ 印象 ”化作業について;

Dec.2020/ Kohshiroh Okeda

夢見への注-意:印象,追憶,予起について