身体の対称物(仮)

2022-02-19: 不分離の原則( 先ずの前提として:)
私の“群れ”で歩き回ったりしなかったという謂れ( 仮に海外旅行時に連れがいたとしたら,旅費の節約には役立ったかもしれないが. )路上男子グループなど,再び“くすくす笑い”に変わった。“他人評価”一々自己とのダブルを意味すれば,それら悪夢に変わりかねない。
彼ら反応したかのような? -なにか感覚(センシング)問題かもしれない。;去年(それ一度きりだったが)ある施設内で,偶々こちらも視ないで通りかかった他者に,珍しく強い“ 無言の雰囲気 ”のように感じられた場合が遇った。それは,沈黙というより,むかついているといったかのようだった。私は視覚的な印象や動作的な仕草に因らないそのような感覚や能力が純粋に有り得るだろうか?と不思議だった。“-彼らも偶々そんな風にだれかのなにかであったと‘錯覚’していたのでは?”
研究家としてはこのような場合に適用可能ななんらかの法則を見い出そうとする。が,想像本位や二次的な論理性自体は失敗してしまう( 論理的説明の必要性というならむしろ自己安全保存のためであり,それゆえに“あの彼らが”といったような対称矛盾を持つのだろう。 )
“ これは夢 ”といったのなら。

[ “全部に嫌いだ!”といった対抗の仕方も悪くはないが( 全部に対抗する, )敢えてひとつひとつ必ず“私の-”という主語を点けて言ってみるのもひとつの方法だろう( 私物化の意味ではない. ) ]

2022-01-07: 対称物を持たない
“周り全部”コントロールする。

[ 私の先月21日付に改訂して,
“(催眠的)感受性”とは身体性そのものであったかの,こちらが対抗するか無視する,あるいは麻痺させるに拠って,(それ問題的-)より強迫するだろう。
-それは,むしろ“(対称化に依る)自己憑依”のことだった。仮に“別のだれかに因ってセンシングされている”という対称的の見方に拘ったりすれば,そのような自我との分離自体には見えなくしてしまった.,この点での“催眠状態”だと。
( “私の-”と言えば,逆接的に肯定否定しているので,他に向かって絶交宣言していたとしても,それ自身は無くならない,すべては“ある”だけで,それがどうしたというたとえは無い。 )]

“周り全部”対称化されていなければ,今何を視ていても読んでいても(そこには存在しない,)私の受けるだけにはならないことだ。

2022-01-08:
身体の違和感(常に)夢見関連点けてみる。

2022-01-10: “ 表象物 ”という映写に条件点ける
再び計数カウンター片手に“ 憶い出さなかった瞬間 ”の傾向を割り出してみた処,やはり(表れに)見入っているあいだだった。それがどんなものでも,“食事のメニュー”同然で,これと意志の主体とは無関係だ[ -その瞬間,なにに重点が置かれていたか。 ]“ 夢 ”はすべて欲求の表れなのだろうか。

( 眠ってはいなかった, )また一度だけ“ 夜道の一角 ”のようなイメージがみえた。ある細い舗装道路ひとつ,その下りの右に急な曲がった(その角)土塀の垂直に遮られて見えない。その塀の向こう側から,なにか(半ば影に)肩か頭から羽根の生えた裸の両足みたいなものが表れていた。

夕刻寝床では“眠り”に逆接的に“ 意識 ”を導こうとしていた。起床直後,視覚的に注目しようとすれば私の注意が途絶えるといった,観察の切り替わり[ -主体はどこにあるのか? ]そこで“ 視る ”に主点を戻してみようとした。が,“ぼんやり”にはなにも起こらない[ 今-“ 活動 ”中心は? ]
( “もの思い”に加担できた時期には )それらを対象化することになんの躊躇ちゅうちょも無かった。私は夜道での自転車ルート辿りには対象的な注目にはならなかった。それらには欲求の動機も無かった。

2022-02-07: 意識の存在
私の片手にペンを持ったままもう一方で室内電灯を点けようとした,その瞬間“ ペンを持っている手 ”という意識は自覚されなかった。そのあいだ私の右手は無かった:[ 私は常に“テレビ人間”の併害を問題としていたが,それにも依存的な面があった。 ]
ある“ 意識 ”もこれと同じで,あたかも“別のもの”が表れていれば,こちらには無いかのよう。
;“ 持っていた ”のはペンの方であって,私の手がしたのではなかった。今この手にペンが無くても“ ペン回し ”は可能であると?
( 私はその電灯の点いている光景に向かって )この右目で視ようと私の右目に掌をあてがってみたが,同時に左目に写っているその光景外には見えなかった。しかし,一見“見えない”のは左目の光景にとらわれているからだ。