“ 印象 ”化作業について

[ “メンタル人間”の終わり. ]
私は去年‘ 自転車うんどう ’していた頃には身体-メンタル的な問題解決と関係点けていたので,‘ 夢見 ’とは直接関係に無いと思っていた。しかし,私にとっての初めて“市内の特定町名”について,なんの意味だったのかと訊ねた( 当時その交差点ごとの逐一ルート,そのルート上の町名等. )
不意に,その作業の本質,あるいは‘印象作り’だったのでは?と考えだした。実質,私にとってはそれらが記憶-印象化されて‘夜道イメージ’の反復となっていた。
しかしマップとの対応は単純に記憶力の問題,というよりは( 私は毎回私の地図記憶のみに辿って行ったので,途中メモに依ったのはほんの数回だが,慣れない所での町名等メモだけでは余計に迷わせる.. 私には神経的な試みのようだった。)
詰まり,私はこれとは深慮無しに‘ 夢見 ’トレーニングをしていたのである。だが,“--自身”の為に-? それこそ私の内的表れとの方向-転換作業だった。
[ 私の以前日記中には(当時“わたし-かれら”という投影に)“メタフォー”あるいは“メンタルピープル”という語を宛てていた.
(-それは“かれら”自身にも変わる。)]

その夜道など,私には未知-ルート体験としての初回印象等であった。実際のマップ繋がり辿りよりも,ひとつひとつその場での印象として生きるという意味での。

自動反復する?
但し,(ある“ 印象の ”)基礎となる体験が特に強められるためには,その体験のなんらかの原動機が予め在している。
(今)‘ 気づく ’と想定する。という,自覚夢-夢明瞭化への実験は,‘想定的に生きる’という意味であり,原動機の元体験が理解されていなくても,次の機会に移動するのである。
( つづく )

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;夢-最中なぜ憶い出せない?

Dec.2020/ Kohshiroh Okeda