明晰夢への遡行

2021-01-02: 布置と辿り
私への注意一致が足りなかったのだろう。風邪っぽい頭痛は数日続いている。わずかな寒気と頭痛に対処するため,3時過ぎに自転車で出た。両膝にきている。Hy大通沿い,Ot通側にも人影はほぼ無いようだったが,あの交差点には近づかなかった。爪先などが凍ったように冷える( 室内で両足底-拍手体操していたら骨細胞にも良かったかも? )無自覚症状の2型糖尿病-?
私に夜道ルートの想い出せない部分が残るとしたら( 私は自記したように一々その度に直前まで辿って意としようとした。一見,リバースするの論理だが,“ 夢 ”ではこれが現在点への意と自体となる。)-“ アリアドネの糸 ”が手繰られていない,常にこれ置かれているかどうか。
最近のテレビに,薬師丸ひろ子が歌っていた( その性的にみえない印象でありながら,歌詞は女っぽく,私は関心なかった。その瞬間,昔あのふるえがちな声が連想されたが, )そのあと私の忘れかけた瞬間に,その歌声の部分が何度か繰り返されたので,私はそれを私のこの条件に組み込もうとした。
先程の論理によるなら,もし“ 歌 ”に手繰り-辿り条件が点けられれば,“ 夢 ”場面ではそれが意と-気づきの直後に聴こえる筈だ。

動的関連と“ 条件点け ”( 能動と緊迫 )
1.私は“ ある女性 ”という想起イメージがどうして今更あるのか考えてみた。
自覚夢の発生本質が実は生理的-,という見方( -若年のうち,夢記録等には絶対という程に“ 性的な交遊 ”行動が多い. )が,‘ 私の視点 ’という最大利点を怯やかす。フロイトのあの論などを要約に言うなら,同一的なエッチの試みは刺激増大的の喚起される幻想ファンタジーであって,その動物目的( 生物の衝動元 )からは離れている-(“ 目的 ”という標語や嫌なら,たとえば“ 食べがり, ”それとも“ 老化の兆候 ”と言った方がいい。)
例えば昔,仙道の流れに“ 房中術 ”の類いが勤しまれた,というのは,その“ 活-動的-ポテンシャル ”や“ 生命的なエネルギー ”として利用しようとするひとの,‘ 若さ ’との自由関係であろう。洋風にもじって言えば,“ パン配るひと ”と“ パンもらうひと ”とが同一源であり,練りものの中身を発酵させない,また( 酸化させないで )焼いたり煮たりができるとものか?といった案配である。
〔 それゆえに‘ 気 ’は逸脱しやすく,‘ 気 ’自体に因って温浴すればだが,( 外部関心型なら )閉-回路でない,絶対いけない。〕
私が記録した幾つかの“ 即-自覚の伴った夢場面 ”に於いて,それ“ 自覚 ”にはなんのきっかけとなっていなかったのが判る( これの“ ”と敢えてbタグで括って字体を変えたのは,“ 私の ”と想われている恒常が,単に特定的な記憶等に依るもので( 特定的な,と言える根拠- )通常その置き換わりのサーフェイスだけだとは見透されなかったからだ。夢に“ 私 ”というアイディーが本来必要とされるわけではなく(“ 夢 ”は私という記録者を必要としない, )それは識別子に過ぎないが,個人の王道として達成されうべき‘ しるし ’が必要となる時には( ファンタジーの回帰-充溢, )あたかも月夜の水面に,ひとつ立ったように静的にみるだろう。)

2.私の右腕“ 緊迫( 緊縮 )”は受け身に対する抵抗であった,という説。
以前,私はこれに関して“ 右側の突っ張り( 固張り )”と称していた。意図されない“ りきみ ”が常に起こるなら,それにはなんらかの自己抵抗性がある。身体が左右どちらかのために強張っていなければいけない,という間接的な原因だとしても,直接原因ではない。片側-歯が痛いから? 肉体の鍛えが不十分だから? これらは根本理由とはならない。
例えば,その右手に依って私のなにかを“ 出し損ない( 出しそびる )”という問題に,偶像またはそこにの機制であるかのように,次第にイン-プリントされた( 心理的な,序々-神経的な )という見方.,“ 分離 ”自体ほとんども既存イメージとの対象化さる( 原理的には,自己-投射,“ 対象像 ”以前に.)が,そも,なぜ“ 分離 ”が必要であったのかが説明されていない( もし,そのはじまりに説明が必要であったのなら. )
過去型“ マスター ”イメージの類い( 人であっても物品であっても )自身との労作である.それが一見外的に投影されただけの“ 分身的な確認事項 ”に過ぎないばかりか,それ自体の‘ 憑依的な充満 ’という同一的表れとして感覚さる場合も-? 〕
私は未だに“ 迷惑少年たち ”に私のヒステリーだという明確な規定ではない( 現象化されたヒステリー,それとも“ 恐怖症 ”という見方. )
[ 私の自己核心への確認は‘ 夢見 ’それ自体に遇ったので,( むかし“ 外的重要性 ”信じ込まれたような )刺激-反応との同一や正当化が一度も必要でなかったなら,一から‘ 夢見 ’に外的な経路を求める用も無かった。当初,私として‘ 夢見 ’記録の発布をメンタルドクターという形で利用できた( そのいわれ, )しかし,これの原初的な始まりと理想だった。]

3.私は左側の撤収し,この右側と移せる。
( -案外には,左側の“ 受け身 ”だった,という逆説。)-“ 性-源域 ”とのYES/NO.

私とは?
私は普段にこの考えたりするための一脈について‘ 私 ’と称してきた。これはオーソライズされた普段の‘ 私 ’であり,私はすべてにこれを当然と適用しようとした。“ 俺,僕 ”といった古い呼び名は‘ 私 ’には無意味であった。そして,この点をこそ“ 理解 ”の道と称したのである。( その“ 私 ”とはなんであろうか )かんがえもしないで..
昔“ 光あれ ”と言ったものがいた。“ 光あれ,すると光があった. ”それがすべての原点だと。だが,それがなんのために起こったのか,一体“ 光 ”でないなら無意味/意味だったのか,それともの“ 女と男 ”以上に活きるものが?(“ 細胞分裂 ”は古くからの本に予め書かれている。)あの度々しかめつらしい語に依って綴り代えられた,“ よろこび ”の正体も..

今回これは‘ 夢見の実践オリジナル ’という文脈,“ 夢 ”に於ける私に先ず言及してみよう。
〔 視点の有無 〕普通に“ 周囲の ”物事に目が移るとき,ただそれら自体に身を委ねるのか,予め‘ 私の視点 ’として( 記録的に )視るのか,その対処の違い:
‘ 私 ’無し( 自動的な興味の向かう- )いわば“ 目を奪われる ”状態。
‘ 私の視点 ’が先行し,状況逐一すべて観察可能( あるいは環境的-分離的に保たれる場合がある。)
私は以前( ぼんやり最中に )気がつくという夢見実践のための条件点けを課そうとした。これはうまくいかなかった。ぼんやり最中にはこの意との状況が再現されないから?( その意との課題が為されたその状況自体との反復となる )という条件違いの問題であった。私の無いところに私を起こすのは非常に難しい。〔 先月論稿:
夢-最中なぜ憶い出すことができないか?

しかしも,‘ 私 ’の全容が明らかになっていないのと同様,“ ぼんやり ”が解離性なのかなんらかの意識行動なのか,という質問であり(,それらがなんにしても,“ 感じる ”という受容的な要素ではない。)

2021-01-10: ‘ 気づき-喚起 ’の原素?
( 物理的な )ある図書館内で,偶々私は日没までの時間合わせにその館内の見取図を視た。私にはその建物は1Fとその階上だけで,駐車場の造りなども無かったのだが,その図面の“ B1 ”-? “ B2 ”-? そして“ B3 小劇場 ”と描かれてある! 不意に衝撃のようであった。
この8年間程,私は先ず数階分のエレヴェーターを使わなくなっていたので( ふらふらと歩き回るような雑用は無くなった.)そこでは一度も階数表示に見覚え無かった。そのエレヴェーター乗り場でも私はなにも見入ったりしなくて,このまえ一度若い女性が弦楽器のケース持参で来た処に私が偶々みたのを,なにか不愉快そうな表情だった。私は一瞬“ 練習室 ”と書かれた案内板を視た記憶が遇ったが,それが具体的にどんなスペースなのかと,かんがえに無かった。〔 その“ 練習室 ”という誘導表示が,実際には昔Loft栄店の吹き抜け反対側に遇った同様の案内矢印板との印象に替わっていた。〕
私は以前その図書館休館日うっかり入り込んで( なんだ,今日だれもいないな )仕方無く手洗いだけ借りた。当然のように,そのような“ 行動 ”は予め感化され調和したかのように( 人の領域には )誤解されている。“ 地下 ”になにか窺い知れない構造があるという表示,あるユング心理学よりも,自己象徴的であった。
〔 ここでの肝心が言い忘れていた。私が今日そのエレヴェーター乗り場にいた,ある瞬間,私の視界-壁にコルク張りの案内ペーパー用ボードが遇った。私が両目を近づけるようにしてみようとしたその一瞬にだけ,いま‘ 意と ’だ。私は即そのコルクの模様が“ 粒子状 ”との相似だったのだろう,と。この通りなら,視覚的なその印象自体に( 私の現在意図ではないレヴェルで, )直接その記録-連想が働いたわけだ。私はそこで視野に粒子状を視ようとはしなかったけれども。
そのように,その見かけ外観が直接‘ 意と ’関連物と自動連想されうる場合には楽だが,関連点け難しい人物像的な捉え方やメントフォーとの“ 反転 ”に於いては,一定の重要性がおかれていた為に,取り敢えず人の者ように対処するという古い慣例がとり憑いている。〕

2021-01-11: 両手のわざ
手元に薄いドアが開いて次の間がみえた。あれ? 全面-白っぽい小さな箱部屋の壁面等,均等にドア2つずつだけが遇った〔 私の意識としては“ 夢 ”か,思考の範囲が狭まったかのように,制限されていた。〕私はドア等のひとつを開けた。そこも同じような空間だった。私はどのドアだったか間違えないように( 気づかれないように,そっと閉めながら )元通路に辿った。通路の向こう少し間隔に,全身-頭部まですっぽり黒いもの覆った男たちのような姿が遇った。私は気づかれたくなかったが〔 私その姿だったに違いない, 〕かれらは振り向くや,身動きしだした。そこから変わった絵みたいに,左側に男3人がそれぞれその頭部だけ露出した姿で駆け出した。そのひとりはその口元-頬に深い皺の寄った中年白人顔だった。かれらのその様子はその場への“ 反抗 ”を想わせた。〔 既にその場面との無関係な音声のように,“ なにやってるの?あれ ”という日本語の喋り言葉が聞こえた。
“ 夢 ”はそこまでだったのだが.,直後私はその場面よりも‘ 私の両手に拠って ’といった点をこそ注目した。なるほど,“ 夢 ”自体に因る夢見は“ 能動 ”的であったかもしれない。あたかもSF映画“ 2001:A ”の宇宙飛行士B,あのなぞの時代調-室内や青いプディングに“ 何者が関与しているのか? ”-その中に様子を窺いながらもそこに居る以外に無い,と。
けれども,両手自体に拠る‘ 動-能 ’はメンタル型-慣習よりも純粋で,慣性的な“ 私-自身 ”ゆうような過去生を介さない。
その“ 夢自体 ”に依拠して言うなら,“ 迷路での探索 ”という題だろうしかし.,ここでの試みは“ 夢の表れ ”に遡及するという第一義なので,夢自体に呑まれるという不本意(“ 室内 ”にいる,という絶対限界- )をゲームマスターやテレビ受け自身のように一々よろこんでいて,時間も無い。

今朝と寝床まえに,私の右手指先に不意な温感が発生していた( 指先に時折,比較的はっきりとした温かみスポット。)私の寝床に着いて‘ みよう ’としていた処,一度だけ( あのちらつきみたいに,その視野-真ん中ではなく,下部に )一瞬なにか白っぽく,又分かれの植物か花みたいな形状。私は‘ 例の明晰夢-前兆。’とみなしたが,本当にそれ自体が“ 夢 ”の表れ前兆なのか,それとの私の( 心理的な,次への )具体性に拠るのか?

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2021-01-13:
‘ 意図 ’自体(‘ 意と ’との条件点け・)